2014年5月6日火曜日

光琳を慕う 中村芳中(千葉市美術館)


最初のコーナーは、中村芳中が慕っていたという、尾形光琳、そして尾形乾山の焼物などの展示。

光琳の燕子花図。これは、国宝になっている屏風絵ではなく、金箔だが小さな作品。光琳は、よく燕子花を描いた。

そして、その光琳を引き継いだ人々も、光琳の燕子花を参考にしながら、皆、自分の燕子花を描き続けた。

燕子花というイメージは、琳派にとっては特別なものだった。1つの花が、1つの流派を象徴していることが、興味深い。

果たして、この展覧会の主役である、中村芳中は、どのような燕子花を描いたのだろうか?

その中村芳中のことは、名前を知っていた程度で、作品についての印象は、全くなかった。

中村芳中の作品は、いわゆるたらし込みを使った作品が多い。ほとんどの作品に、その技法が使われている。使い過ぎ、といってもいいかもしれない。正直、最後の方は、少し飽きが来てしまった。

光琳を慕っていたという、中村芳中の燕子花は、意外にも、光琳とは、少し違った燕子花だった。

光琳の燕子花は、同じような形の燕子花を、大量にコピーするように描いていることが多いが、芳中の燕子花は、花の形をデザイン化して、一つ一つの花を、明確に分けて描いている。

中村芳中は、京都に生まれ、大阪で絵師としてした後に、江戸に出て、光琳の作品から選んだ花、動物、人物などの絵を集めた『光琳画譜』を出版した。中でも、かわいらしい子犬の絵が印象的だ。

当時の江戸では、すでに酒井抱一が、いわゆる江戸琳派の活動を始めており、中村芳中には、江戸で活躍する余地がなかったようだ。芳中は、すぐ大阪に戻っている。

中村芳中の作品以外にも、木村蒹葭堂を中心とした、芳中と同じ時代に大阪で活躍した絵師達の作品も展示されていた。

普段は、あまり目にする機会のない、そうした作品からは、当時の大阪の文化レベルの高さがうかがえて、興味深かった。

中村芳中は、その前半生も没年齢もはっきりとはわかっていないという。

しかし、これほど多くの作品が、今日まで、誰かの手によって守り続けられてきたということの方が、その前半生も没年齢よりも、この中村芳中という人物が、どんな人物であったかということを、よく物語っている。

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