東京、恵比寿にある、東京都写真美術館で毎年開催される、恵比寿映像祭。今年のテーマは”TRUE COLORS”。
人は、色という存在を、そのものだけでなく、伝統のイメージとして、あるいは自らの主張や、気分を表すものとして捉えてきた。
そうした色について、世界中の映像作家の作品から、今一度、見直してみよう、というのが今回のテーマの趣旨のようだ。
恵比寿ガーデンプレイスの広場には、映像祭にちなんだ、西京人という、小沢剛、チェン・シャオション、ギムホンソックの日中韓3人のグループによる、コンテナを使った展示があった。
仮想の国家、西京国を舞台に、国家という制度をパロディ化している。
この映像祭では、映像作品の劇場での上映や、シンポジウム、レクチャーは有料だが、地上の2、3階と地下1階を使って行われる展示は全て無料というのが、実にうれしい。
3階の会場を入ってすぐのところに、赤い、色鮮やかな、布の袋のような、固まりがあった。
韓国生まれのキムスージャのポッタリという作品。ポッタリとは、韓国語で包む、という意味があるようで、韓国では、ベッドカバーで衣類などを包んで、しまったり、移動したりするという。
そのポッタリの横には、トラックにポッタリが山のように詰まれ、そのトラックが山間を走り続けるという、Cities on the Move - 2727 KM Bottari Truckという映像作品が流れていた。
韓国のみならず、世界中の伝統的な民族服、工芸品の中には、赤や青、黄色などの色鮮やかな原色を使った物が多い。その意味を、いろいろと思いを巡らしてしまった。
台湾出身のジョウシン・アーサー・リュウのコラという映像作品。私が、この展覧会で、最も心に強く残った作品。
作者が最愛の娘を失い、チベット教の聖地、カイラス山への巡礼の様子を撮影した映像作品。最小限の効果音楽だけが流れ、映像は、ただただ、淡々と、カイラス山の山道を映している。
真っ白な雪道もあり、緑の大地もあり、土や岩の荒涼とした風景もある。チベット経独特の、衣を縫い合わせた、その色の鮮やかが印象的で、美しい。
ローアングルから撮影された、カイラス山の圧倒的なその風景に、思わず足を止めて、およそ15分の全編を見てしまった。
コラとは、チベット仏教において、巡礼を意味する。巡礼の道行きにおいて、人は何を思うのだろう。
アメリカで生まれたスーザン・ヒラーの最後の無声映画。すでに絶滅、あるいはほぼ絶滅に近い、世界中の少数言語の会話の録音を、映像なしで上映した作品。画面は真っ黒で、日本語訳の字幕だけが、画面の下を流れている。
会場には、そうした言葉の会話の周波数のグラフも展示されている。音と、それを変換したグラフという、多様なメディアで、言葉、というものの存在を、見る物に考えさせる。
それにしても、これまで、どれだけの言葉が、この世に生まれ、消えてきたのだろう。言葉は、それを知らなければ、単なる音としか聞こえない。
2階の会場の入り口には、田村友一郎が、瀬戸内海の粟島でのプロジェクトで制作した鬼瓦、ケイティ・キングを展示。
これは、田村が偶然、粟島で見つけた、ウィリアム・クルックスのラジオ・メーターという作品から、クルックスの心霊研究を調べるうちに、ケイティ・キングという女性の幽霊に出会ったことに由来する。
19世紀の女性の幽霊が、21世紀の瀬戸内海の小さな島の鬼瓦となって再びこの世に姿を現す、というそのアイデアが面白い。
パキスタンで生まれた、シャジア・シカンダーは、インドの細密画の手法を使ったアニメーションの映像作品、ラストポストを展示。イギリスによるインドの植民地化の影響を映像化している。
イギリスのインド統治について、私たちは、写真や研究資料などの、いわばヨーロッパ的な手法でばかり、知らされている。しかし、それを、インド伝統の細密画の手法で表現すると、どうなるのだろうか、という野心的な作品。
地下1階では、アークティック・パースペクティヴ・イニシアティヴという団体の作品が印象的だった。
この団体は、マルコ・ペリハンとマシュー・ビーダーマンという二人の人物が中心になって、芸術と科学の融合をテーマに、北極圏において生活する人々の文化や、生活の知恵を共有しようとしている。
北極圏の航空写真、生活の様子を撮影した映像、各種の計測機器などが展示されていた。
突飛なことをするのではなく、日々の活動が、そのまま作品となる、これからの芸術のあり方を予感させるような、心に残る展示内容だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿